自己紹介

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はじめまして

寄り道みたいな始まり

波動調整家の薄荷(はっか)と申します。

私が磁場共鳴分析器(MRA)という、「波動を測る」といわれる機械に出会ったのは2003年のことです。

気がつけば、もう20年以上。振り向けば本当にあっという間でした。

長年に渡って愛用している波動測定器とコードブック

野心だけを握りしめて

思えば、大学を出たのが就職氷河期のど真ん中。なんとか外資系のカード会社にもぐりこんだものの、毎日どこかで

「これって、結局だれのためになってるんだろ?」
「自分は、何かの役に立ててるのだろうか?」

と、地味〜に、じわじわ削られる日々。

そんなときに、ふと風の噂を耳にします。

「アメリカから、とんでもない機械が上陸してるらしい」

それは、

写真1枚で、その人の健康状態の情報が、ミクロのレベルで分かってしまう。原因を潜在意識の感情レベルで特定でき、しかも、その人に必要な波動情報を水に転写して、飲める。そのことによって波動が修正され、それが物質レベルに働きかける。

……いま書いてても、なかなかのパワーワードです。

でも当時の私は、「へぇ〜、すごいな!」「なんか面白そう!」くらいのノリ。

ライトで、ポップで、どこまでもイノセントな文系脳。波動の知識なんてほぼゼロ(というより無知)。

だからこそ、なのかもしれません。

「何者かになれるかも」

という野心だけを握りしめて、このディープな世界にノコノコと首を突っ込んだのでした。

最初のころは、

アメリカの科学者が、解剖学と量子力学で作った最先端のテクノロジー

みたいな話を、(量子力学が何かも知らず)わりと本気で信じてました。

でも、機械と毎日向き合っていると、さすがの私でも「……いや、そういう話じゃねぇだろ?」くらいには勘づいてくるわけです。

それくらいの懐疑心はさすがに持ち合わせています。

じゃあ、この謎の機械。ただのインチキ?プラセボ?思い込み?

ところがこの装置、最大の泣かせどころ(問題)があるわけです。それが、

「ハマる時は、おそろしく、◯く(お察しください)」
「訓練を重ねるほどに、その打率は異常」

という動かしがたい事実…

「常識では説明しきれないこと」「これなに?」「なにそれ?」が、割と起きる。

これさえなければ、Mr.お花畑の私でも、とっくに見切りをつけて別の道に進んでいたと思います。

それでも二十数年、これ一筋で居座り続けてしまった。

その最大の理由は、よく分からないけど愛すべきこの装置が持つ、どうにも無視できない魅力に尽きます。

あれから、二十余年

読み込んできた資料の数々

気づき

長く一つのものと向き合っていると、そのものを捉える世間との見方に、少しずつ隔たりが生まれます。

MRAは、私にとってまさにそういう存在でした。

当初は、アメリカの科学者が解剖学や量子力学を応用して開発した最先端の技術だと理解していました。

しかし二十数年という歳月は、その説明を無邪気に信じ続けるには長すぎました。

なぜなら、科学哲学のいう再現性や反証可能性という条件には、どうやっても収まらない部分がありすぎるからです。

いわゆる「科学技術」ではないなという事実は、比較的早い段階で認めざるを得ませんでした。

では、それまで自分の目で見てきたもの、体験したリアルを、どう扱えばいいのでしょうか。

分岐点

「完全なる科学」という後ろ盾を失ったとき、

その魅力が色褪せる者がいる。
枠組みが外れて、自由になる者もいる。

幸か不幸か、私は後者でした。

説明の正しさを疑うようになっても、目の前で起きてきた現象まで消えたわけではないからです。

一般的な測定機器であれば、観察者はできる限りプロセスに介入しないことが望まれます。

誰が扱っても、同じ条件なら同じ結果が出る。その意味で、人間は排除されるべき「誤差」です。

ところがMRAでは、何を対象として見るのか。何を問いとして立てるのか。どこまでを対象の結果に求めるのか。

そうした術者側の意識が、測定や調整の成否と無関係だとは、次第に考えにくくなりました。

術者を含めて、ひとつのシステム

長年これを扱ってきた実務者として言えるのは、人間を取り除いて装置だけを語るより、人間を含めて一つのシステムと捉えるほうが、私の経験とはるかに整合するということです。

つまり、人の意識(意思)が、結果に干渉するわけです。

装置の性能ですべてが決まるのなら、極論、操作方法さえ覚えれば誰が扱っても同じです。

しかし、扱う人間の認識や経験までが一つの系を構成するのなら、話は全く違ってきます。

どんな問いを立てるか。何を見落とすまいとするか。その精度は、積み重ねた時間と試行錯誤によって変わっていきます。

そういう意味では、

投下された大量の時間、試行錯誤、フィードバック、蓄積された経験、それにより形成される“勘”の体系。それら要素の一つ一つが、装置を含む術者というシステムの一部といえる

のかもしれません。

この認識は、私を不自由にするどころか、逆に解き放ちました。

どこまでを、「その人」とするのか

さらに、かつての私は、扱える世界は装置のなかにあると考えていました。

登録された項目から選び、身体の状態を測り、必要な波動を選定する。いわば、所与の地図。けれど、

術者の意識がこの系に関与しているのなら、問いそのものをこちら側から立てることもできるはず。

ここで、それまで当然のように引いてきた境界線に、疑問が生まれます。

そもそも「その人」とは、どこまでなのか。

皮膚の内側までなのか。では腸管内部の空洞や鼻の穴。指で輪っかを作った、その内側は?

身体と、その人が働く場所。身体と人間関係。そして、いまその人の人生で起きている出来事は。

私たちは便宜上それらを切り分けています。しかし現実の人間は、身体だけを切り離して生きてはいません。

誰かと関わり、何かを選び、働き、場所に属し、環境から影響を受け、同時に環境へ影響を返しながら生きている。

だとすれば、なにも身体の内側だけを「本人」とする必要もないのではないか。

越境者として

ここから、私の波動調整は、身体中心の枠組みを少しずつ越えていきました。

人は、身体の内側だけで完結する存在ではありません。人間関係や仕事、そのなかで直面する困難、実現したい目標。

そうしたものにも向き合いながら、日々を生きています。

いつしか私の波動調整も、その人を取り巻く世界までを、その対象として捉えるようになりました。

いわゆる伝統的な生命場(心身)を扱う《インナーフィールド》
クライアントを取り巻く環境や事象変容まで扱う《アウターフィールド》
そして、その両者を統合的に扱う《ミックスフィールド》

身体だけを見るのでもなく、心だけを見るのでもない。必要や要望に応じて、その方を取り巻く環境や出来事まで含めて、どこまでもひとりの個人へと寄り添っていく。

それが現在のResonance Designです。

駆け出しの社会人だった頃の私は、

「これって、結局だれのためになってるんだろう」
「私、だれかの役に立ててるのかな」

と考えていました。

二十数年経った今も、その問い自体は、きっとさほど変わっていないのかもしれません。

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